CROSS TALK
SAKON Dialogue : 028

光が見えなくても進み続ける
− 60歳で「フランスの至宝」になった画家 #1

松井守男(レジオン・ドヌール勲章受勲者/画家)
松井守男
MORIO MATSUI
レジオン・ドヌール勲章受勲者/画家
SAKON Dialogue : 028
光が見えなくても進み続ける
− 60歳で「フランスの至宝」になった画家 #1
作風から「光の画家」と称される松井守男氏は、23歳でフランスに渡り、43歳のとき発表した大作『遺言』で実力を認められた。若い頃に両親を亡くすなど困難に見舞われながらも描き続け、60歳でフランス最高峰の勲章であるレジオン・ドヌール勲章を受章。自身の経験から「捨てる神あれば拾う神あり」という諺を愛する画家は、「フランスの至宝」と呼ばれるようになった今も日本国籍を放棄していない。今回のクロストークでは、波乱に富んだ松井氏の半生、日本人が海外で活動することの難しさなどについて、同じ愛知県豊橋市出身で、F1レーサーとして海外在住経験をもつ山本左近が話を聞いた。前編・後編の2回に分けてお届けする。
photos : Yasufumi Suzuki
text : Keiko Sawada

在仏53年の「光の画家」が描く、日本の美

山本左近(以下、左近):今日は、同じ愛知県豊橋市出身の守男さんと神田明神でお話しすることができてうれしいです。今日は令和元年の神田祭、2年に1度の本祭の日なので本当にすごい活気ですね。

松井守男(以下、松井):歴史と伝統のある神田明神、そして日本三大祭りの一つである神田祭というのは、僕にとってひときわ大きな意味をもちます。僕は今年の夏で77歳になりますが、23歳でフランスに渡ってから53年になりますから。

でもさらにうれしいのは、今日こうして左近さんとお話できること。フランスではF1ドライバーではなく「ピロ」、パイロットと呼びます。フランスは、何度も革命があったことから庶民を大事にする国であると同時に、芸術文化とスポーツを愛する国民性をもっています。F1パイロットになるというのは、ノーベル賞を獲るのと同じくらい素晴らしいことですから、緊張します。

左近:守男さんと比べたら僕なんてまだまだですが、ありがとうございます。

松井:バーニー・エクレストン(F1運営組織の元最高責任者、現・名誉会長)の口から、「頑張っている若者」と左近さんの話が出たことがあります。彼は僕の絵のコレクターのひとりなんです。ヨーロッパで話を聞いていた左近さんが、実は僕と同じ豊橋出身だということがわかったときは、本当にビックリしました(笑)。

左近:はい、僕も驚きました(笑)。守男さんとは何度かお会いして、僕が携わっている「福祉村」にもお越しいただき、高齢者、障害のある人、子どもたちに絵を教えてくださったこともありましたね。みんな喜んでいて、描いた絵は今も飾っています。

この「文化交流館EDOCCO」には、守男さんが制作した3つの大きな作品のほか、たくさんの絵が飾られていますが、どういった経緯で神田明神に作品を提供することになったのですか?

松井:人のつながりって本当に不思議だなと思います。まず国連のユネスコ本部には僕のコレクションがあるのですが、京都の上賀茂神社がユネスコの世界文化遺産に指定されたとき、その縁で上賀茂神社で展覧会をやりました。
そのあとは本拠地のフランスに戻っていたんですけど、しばらく経ってまた上賀茂神社にご挨拶に伺ったら、襖絵を描いてもらえないかと話がありまして。喜んで14枚奉納したのが2016年ですね。その絵が次々と寺社に知られていき、神田明神の大鳥居信史宮司(現・名誉宮司)へとつながったわけです。

左近:そういうつながりがあったんですね。

松井:僕のいいところは、人との縁を大切にするところかな?(笑)。時間と体力が許す限りどんな仕事も引き受けるし、こうして神田明神にもつながっているのも、上賀茂神社に改めて挨拶に伺ったのがきっかけですから。
神田祭は庶民のお祭りです。大企業の社長も地域のおじちゃん、おばちゃんも神輿を担ぐ。これこそ日本が世界に誇れることじゃないかなと思います。そこに参加できるのは僕にとって、とてもうれしいこと。

ちなみに国連のテーマカラーはブルーでしょ、幸せの願いを込めたブルー。僕の最近のテーマもブルーなんです。だから神田明神に奉納した『blue・bleu・ブルー』『昇り龍』『光の森』にもブルーが入っています。

海外で味わったマイノリティーという立場

左近:今日は守男さんにぜひ意見を伺いたかったテーマがあって。日本では最近、「多様性が大事」「国際性が求められている」とよく言われています。

元野球選手のイチローが引退会見を開いたとき、「アメリカで僕は外国人になった」という趣旨の話をしていました。外国人になるという体験によって、人の心を慮ったり、人の痛みを想像したりと、これまでにない自分が現れたと。
こういった経験をすることで、「多様性」や「国際性」といった感性が身につくのではと思うのですが、それこそ50年前にフランスへ行かれた守男さんから私たちが学べることはたくさんあるのでは?と思うのです。

松井: 50年前のパリでの僕は、マイノリティーっていう言葉が本当にピッタリで、街を歩いて周りを見ても、日本人なんて僕のほかにほとんどいなかった。同じアジア人でも、当時はベトナム人や韓国人が多かったんです。

僕は美大を卒業した後、フランス政府の奨学制度に選ばれて留学生としてフランスに渡りました。50年以上前のことですから、フランス政府の留学生といったら、もうエリート中のエリートだと、誇らしい気持ちで降り立ったです。
ところがですね、パリに到着してビザの手続きで「日本人です」と言ったら、「アジア・アフリカの列に並べ」とぞんざいに扱われて、いきなり打ちのめされました(笑)。パリは特に移民が多いので、外国人はひとくくりにされて事務的に扱われたんです。そのとき隣に並んでいたのは、国を追われフランスに亡命してきたカンボジア人の医師でしたね、よく覚えています。

左近:僕は19歳でドイツに行ったとき、マイノリティーとしての経験をしましたが、僕もその経験をしたことが、今の生き方に大きく影響しているように思います。

松井:僕は、自分の存在って本当にちっぽけなものだと知るところから出発させてもらえたことが、かえってよかったなと思います。レジオン・ドヌール勲章というのはフランスの最高勲章なのですが、受章したときは勲章をもらったことより、フランス人が自分を選んでくれたことのほうがずっとうれしかった。

ちょっと詳しくお話しすると、その勲章は、通常の手続きとしては日本政府が与えてもらう人を選定してフランスに推薦することになっているんです。でも、僕の場合はフランス政府のほうから話があって、日本側が後から僕のことを調べるという初めてのケースだったそうです。駐仏日本大使がそう教えてくれました。マイノリティーだった僕がマジョリティーに認められたわけですから、本当にうれしかったです。

左近:長崎県の五島列島にある、もう一つの守男さんのアトリエで制作現場を見せていただいたことがありましたよね。エネルギッシュで常に新しいことに挑戦し、次なるものを生み出していく守男さんの姿勢は、本当にすごいなと尊敬しています。

松井:本気で頑張ってやってきたことを実力として認めてもらえるという経験は、人間性をつくる元だと思います。つらいことや苦しいことを肩書のない素の自分で経験すると、人の痛みがわかり、相手のことを思いやるようにもなる。

今はインターネットを通じて誰でも簡単に発言できるようになりました。でも、意見じゃない内容を、意見のつもりで発言している人もいますね。
僕のことを「フランスかぶれ」って書いた人もいてね、面白いね(笑)。「フランスで勲章もらったからって、いばるな」とか。真面目な話、僕はとても面白いと思ったわけ。だって、日本人が海外で活躍できるようになるまでに味わう痛みに目がいってないから。
海外から見た日本に目を向けず、自分とは違う生き方をしている人の痛みがわからないまま、ナイフを振り回すような発言を堂々としてしまうのは、こわいなと思って。

ずっとフランスで暮らしている僕から見て、日本人はやはり優秀だと感じることがよくあります。だけど厳しさを体感することも、とても大切です。人は違いがあるから面白いのであって、まず違いを体感することが多様性や国際性を知るうえでの根っこになるのではないかな。マイノリティーの気持ちをわかるということは、その人の心の豊かさにもつながると僕は思います。

左近:21世紀の新しい国際社会で次の日本をつくっていくためにも、守男さんの経験や生き方などが日本の若い世代にどんどん伝わるといいなと思います。そして守男さんのように、世界に出て挑戦する若者がもっと増えてほしいですね。
(#2に続く)
松井守男
MORIO MATSUI
レジオン・ドヌール勲章受勲者/画家
1942年、愛知県豊橋市生まれ。1967年、武蔵野美術大学造形学部油絵科卒業と同時にフランス政府の奨学生として渡仏。パリを拠点に制作活動を開始。1985年に遺作とする覚悟で『遺言』を2年半かけて制作し、“真のオリジナリティー”と高い評価を得るに至った。1997年に30周年となる個展をフェッシュ美術館で開催したことを機に、コルシカ島に拠点を移す。2000年にフランス芸術文化勲章、2003年にレジオン・ドヌール勲章をフランス本国にて受章。日本ではワークショップや絵画塾を定期的に開催している。
山本左近
SAKON YAMAMOTO
さわらびグループ CEO/DEO
レーシングドライバー/元F1ドライバー
1982年、愛知県豊橋市生まれ。幼少期に見たF1日本GPでのセナの走りに心を奪われ、将来F1パイロットになると誓う。両親に土下座して説得し1994年よりカートからレーシングキャリアをスタートさせる。2002年より単身渡欧。ドイツ、イギリス、スペインに拠点を構え、約10年間、世界中を転戦。2006年、当時日本人最年少F1デビュー。2012年に日本に拠点を移し、医療法人/社会福祉法人の統括本部長として医療と福祉の向上に邁進する。2017年には未来ヴィジョン「NEXT55 Vision 超幸齢社会をデザインする。」を掲げた。また、学校法人さわらび学園 中部福祉保育医療専門学校において、次世代のグローバル福祉リーダーの育成に精力的に取り組んでいる。日本語、英語、スペイン語を話すマルチリンガル。

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