CROSS TALK
SAKON Dialogue : 029

光が見えなくても進み続ける
− 60歳で「フランスの至宝」になった画家 #2

松井守男(レジオン・ドヌール勲章受勲者/画家)
松井守男
MORIO MATSUI
レジオン・ドヌール勲章受勲者/画家
SAKON Dialogue : 029
光が見えなくても進み続ける
− 60歳で「フランスの至宝」になった画家 #2
前回(#1)に続き、「光の画家」と称される松井守男氏とのクロストークをお届けする。「良いことが起こる前には、いつも挫折があった」、そう話す同氏はフランスで長く不遇の時代を過ごした。しかし、約30年続いたというその時代に得た人のつながりと、「絵を描くこと」そのものに懸ける愛と情熱により、シラク元大統領に「フランスの至宝」とまで称される画家になった。松井氏は令和元年の夏に77歳になるが、ますます勢いを増しているように見える。その生き方には、しなやかに人生100年時代を生き抜くためのヒントが隠されている。同氏の作品が多数鑑賞できる「文化交流館EDOCCO」(神田明神内)にて、『長寿のMIKATA』編集長・山本左近が話を聞いた。
photos : Yasufumi Suzuki
text : Keiko Sawada

僕は「雑草」のように生きてきた

山本左近(以下、左近): 守男さんはフランスで苦労された時代があったと伺いましたが、マイノリティーな立場から今の地位を得たことは本当に素晴らしいと思います。

松井守男(以下、松井):僕は名家の出ではないし、フランスに行く前も、何かいいことが起こる前には必ず不幸や挫折がありました。
美大では一番で、フランス政府の留学生に選ばれましたが、もともとは音大志望だったんです。ところが、1年でピアノは覚えたけど、イタリアオペラの生の声を聴いて「これはかなわない」と思った。それで武蔵野美術大学に進学したんです。音楽家の前の第一志望は銀行家でした、でも、それも母を亡くしたこともあり挫折して。フランスの美術学校では首席になれましたけど、フランスにいる間に父も亡くなってしまった。
左近さんは若くしてスターになったから、僕とは全然違うでしょう。

左近:僕は小学生の頃からF1に憧れていました。日本で一番の成績をとれたから、「次は世界一になるんだ」って、19歳でドイツに行きました。でも、現実には受け入れてもらえなかったり、思うような成績を出せなかったり。19歳から22、23歳までは本当に孤独でつらい時期を送りました。

もちろん「なにくそ」と頑張るんだけど、成績を出せないと自信もなくなるし、頑張り方を間違えると、がむしゃらになりすぎてマイナスのサイクルに入ってしまう。自分が今まで生きる拠り所にしてきたものが、そうならなくなった瞬間、やっぱり自殺って考えるわけですよ。当時は、「レースで勝てなくなったら人生終わりだ」と思っていました。生きている価値がない、意味がないと思うわけです。

松井:僕は23歳からパリに約30年間住んで、それからコルシカ島に渡って約20年経ちましたが、『遺言』を描いたのは、思うようにいかなかったパリ時代の43歳のときです。これを描いて死ぬという覚悟で2年半かけて描いた作品が、「光の画家」と呼ばれるきっかけになったわけです。そしてレジオン・ドヌール勲章を受章したのは60歳のとき。だから本当に僕は雑草。じっくりじっくりやってきました。

でも、フランスは「60歳までは絵を見ない」とも言われるんです。どういうことかというと、年齢を重ねたほうが円熟した魅力的な絵が描けるということ。
実際に僕は、何十年も無心に絵を描き続けたのち、いつしか色が光として見えるようになり、絵のほうから「こう描いてくれ」と呼びかけてくるようになったんですね。この歳で「日本でも描いて発表してほしい」と声をかけてもらえるようになって、芸術というのは本当に国境がなく、世界中の人を感動させることができるものだと改めて実感できました。

左近:何の保証もないなかで自分を信じてやり遂げたことが、結果的に認められたわけですよね。
世界には、本人が生きている間には評価されなかったけど、信念を貫いて物事を成し遂げ、後世で「あの人のやったことはすごい」と評価された人がたくさんいますよね。生きている間に批判されようが叩かれようが、生きている間に評価されるか、されないかは関係なく、自分が本当にいいと思うことを信じてやっていく。自分の目指すところって、そこなのかなと最近思っています。

松井:その言葉で、ピカソの言葉を思い出しました。僕はパブロ・ピカソが90歳のときから95歳で亡くなるまでの最晩年の5年間、アトリエに自由に出入りし、仕事に関わらせていただきました。ピカソは、評価される時代には「流行」と「才能」があると言っていましたね。

「流行で評価される」というのは、今この人が有名だということで高く評価される。その時代の人間が決める、コンクールみたいなものってことです。でも、「才能で評価される」というのは歴史が決めるものだと。有名だから評価されているわけではないから何年、何十年、何百年経っても色褪せることがない、ということですね。

左近:守男さんのように、ピカソと直接関わって仕事をして、アトリエに自由に出入りできた日本人っていないんじゃないですか。

松井:フジタさん(レオナール・フジタ)くらいかな。最終的にフジタさんは日本国籍を抜いてフランス人になっちゃったけど、僕は帰化していない。日本人で通すことがフランスでは不利益になることもあったけど、頑張っているんです。

手で描けなくなる日がきたら、口で描く

松井:フランスでよかったなと思うのは、芸術至上主義だから国民全体に「絵を買う」という習慣が根付いていること。若いカップルでも結婚したら家にまず絵を飾る。でもお金がないから、画廊じゃなくて美術学校に買いに来るんです。僕の両親はもう亡くなっていたけど、毎月50点くらい絵が売れたから家を借りられた。

当時、僕の絵を買ってくれたのは、みんなお金のない若い人たちだった。その人たちは僕にとって「拾う神」。僕は天才じゃない、才能がないと思ったけど、自殺なんかして勝手に死ぬのは、コレクションしてくれた人たちに申し訳ないなって。その人たちが絵を買ったことを後悔しないように、少し偉くなりたかった。
無名時代に会った人は、今ももちろん大事にしています。この人たちがいろんな意味で協力してくれたおかげで、ここにいられるから。

左近:僕も、自分の力だけではなく、周りの人の支えなくして何かを成し遂げることはできないとわかったからこそ、F1ドライバーになってからも長くその世界にいられたのだと思います。

松井:死ぬんじゃなくて、絵を残す。死ぬ気で大作を描こうと取り掛かったのが『遺言』です。2年半かけて描いたけど、保証されていたお金は1年分。先を考えると不安になるでしょ。だから当時は毎日が天国と地獄でした。

でも、とても細長い面相筆というものを使って描いたら、箸を使わないフランスの人から「これはすごい」と言われて。箸を使うときにやる手首を返すような動かし方を、向こうの人はできないんだよね。それから面相筆を使うようになって、「人」や「愛」という字が作品の中に自然と現れるようになった。だから自分の作品にはどこにでも「人」と「愛」の文字があるんです。

左近:そうやって道が開けたわけですね。

松井:だから僕は「捨てる神あれば拾う神あり」という日本の諺が大好きなんです。人に奉仕する気持ちでコツコツやっていれば「拾う神」は必ず現れます。今、思うようにいってない人がいても、神様はちゃんと見ていますから大丈夫です。僕はもう神様からご褒美をいただきましたので、今はお返しをしようという気持ちで日本に来ています。

左近:光を探して、もがいている真っ暗な時期のつらさ、悲しさ、ひとりぼっちという感覚は今でもよく覚えています。そういう思いは誰にももってほしくないので、孤独な人が周りにいれば手を差し伸べたいですし、 直接つながることはできなくても、誰かと接点をもてるように何かしたいって、いつも考えています。

松井:実はね、僕はそれまで「自分は画家だから、絵を描けなくなったら生きてる価値がない。そのときは絶対に自殺する」と言っていたんです。でも、左近さんが携わっている「福祉村」を訪ねたとき、障害をもった人が口に筆をくわえて絵を描いていた。僕はね、それを見て「これはすごいな」と思ったんです。そうか、手が使えなくなったら口に筆をくわえて描けばいいんだと。

筆は口にくわえたって、足の指に挟んだっていい。耳に挟んでもいいし、鼻の穴に入れてもいい。それに気付かせてもらえたことに、涙が出るくらいうれしくなってね。「生きている限り、いつまででも絵は描ける」と思えるようになった。
同情なんかじゃなく、本当に「ありがとう」と、その方にも左近さんにも感謝しています。

左近:僕にとって守男さんは、豊橋が生んだ本物の世界のスーパースターです。僕は30歳で日本に戻ってきたけれど、守男さんは今もフランスに根を下ろして生活をされていて、世界中から評価されている。これは本当にとんでもないことですから。これからのますますのご活躍を期待しています。本日はありがとうございました!
松井守男
MORIO MATSUI
レジオン・ドヌール勲章受勲者/画家
1942年、愛知県豊橋市生まれ。1967年、武蔵野美術大学造形学部油絵科卒業と同時にフランス政府の奨学生として渡仏。パリを拠点に制作活動を開始。1985年に遺作とする覚悟で『遺言』を2年半かけて制作し、“真のオリジナリティー”と高い評価を得るに至った。1997年に30周年となる個展をフェッシュ美術館で開催したことを機に、コルシカ島に拠点を移す。2000年にフランス芸術文化勲章、2003年にレジオン・ドヌール勲章をフランス本国にて受章。日本ではワークショップや絵画塾を定期的に開催している。
山本左近
SAKON YAMAMOTO
さわらびグループ CEO/DEO
レーシングドライバー/元F1ドライバー
1982年、愛知県豊橋市生まれ。幼少期に見たF1日本GPでのセナの走りに心を奪われ、将来F1パイロットになると誓う。両親に土下座して説得し1994年よりカートからレーシングキャリアをスタートさせる。2002年より単身渡欧。ドイツ、イギリス、スペインに拠点を構え、約10年間、世界中を転戦。2006年、当時日本人最年少F1デビュー。2012年に日本に拠点を移し、医療法人/社会福祉法人の統括本部長として医療と福祉の向上に邁進する。2017年には未来ヴィジョン「NEXT55 Vision 超幸齢社会をデザインする。」を掲げた。また、学校法人さわらび学園 中部福祉保育医療専門学校において、次世代のグローバル福祉リーダーの育成に精力的に取り組んでいる。日本語、英語、スペイン語を話すマルチリンガル。

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