COVER STORY

行列ができる
介護食①

食する喜びが、よみがえる
「魔法の介護食」開発物語
医療法人・社会福祉法人さわらび会は、電通アイソバー株式会社などと協力し、「おいしさ」を科学する新しい介護食を追究する「SAWARABI HAPPY FOOD PROJECT」を立ち上げた。人間の欲求を5段階の階層に理論化したアメリカの心理学者アブラハム・マズローは、その最も根本的な欲求とした「生理の欲求」に「食べる」ことを含めており、「口からものを食べること(経口摂取)」の重要性はすでに多くの医師によって語られている。人間である限り、私たちはいつまでも口福を味わいたい。いつか私たちが介護を受ける側になっても、食べる喜び、そして生きる喜びを感じ続けたい。だからこそ、このような取り組みが行われることには大きな意義がある。
photos : Taro Imahara
text : Shigeki Jizo, Kanako Ozasa

超高齢社会を見据え
形を変えた未来の寿司

試食会の会場で関係者たちが見守る中、「にぎらな寿司」のレシピを考案したクリニカルフードプロデューサーの多田氏が、盛り付けの見本を示した。
試食する寿司は、箸を使わなくても簡単に食べられるよう、スプーンひとつひとつに盛り付けられていく。ひとつのスプーンにつき、1種類の寿司。たとえば、あるスプーンには、マグロの寿司が再現されるように寿司飯のムースをまず盛り、その上にマグロ味のムースがのせられ、さらにその上にワサビのムース、端に醤油のジュレが盛られていく。

試食会で供された「にぎらな寿司」のメニューは、「マグロ」「サーモン」「イカの海苔巻き」「カニ」「ウニの軍艦」。さらに「鉄火巻き」「しいたけ、サーモン、かんぴょうの太巻き」「白身魚(タイ)」「スモークサーモン」「かんぴょう巻き」を加えた10種類。わさびと醤油のジュレ、ガリのジュレも添えられている。寿司飯のムースは、食する患者さんの嚥下機能を配慮し、2種類の硬さが用意された。
このようにして盛り付けられた寿司は、形は違えど見た目も華やかで、絵の具をといたように単色の「ミキサー食(嚥下障害をもつ人向けの介護食の一種)」とは対照的だ。寿司屋のカウンターに座っているような錯覚さえした。

口の中で「寿司」になる
本物と変わらない再現性

「うわっ、うまい!」
「“本当に”お寿司だ!」

会場にいた関係者は約20名。その誰もが、これまで見たことがない寿司の介護食を口にした瞬間、その味の再現性の高さに感嘆した。スプーンに載せられた寿司を口に含むと、寿司飯のムース、マグロのムース、ワサビのムース、醤油のジュレが口の中で絶妙に混ざり合い、マグロ寿司そのものの味になる。その場にいた全員が、口の中で寿司が完成する驚きを共有した。

この味わい方は、日本人が自然と行なっている「口中調味」といわれる。簡単にいえば、ご飯とおかずを交互に食べて、口の中で混ぜ合わせて味わうことだが、日本の食文化特有のもので、海外にはない。しかし、「ミキサー食」や「きざみ食」といった従来の介護食においては、調理段階で複数の食材をまとめてミキシングするため、通常の調理法で作る料理の味わいとは異なる仕上がりになる。
クリニカルフードプロデューサーの多田氏も言う。
「僕も、そのまま食べればちゃんとおいしい〝きんぴらごぼう〟を刻んで試食したことがありました。でも、刻めば刻むほどおいしくなくなるんです」
多田氏は、どのような分量で作れば口の中で本物同様の寿司として「完成」するのか、その調整にはこだわったという。スチーム加熱するなど、調理工程がまったく異なるにもかかわらず、これほど寿司の再現性が高いというのは魔法に近い。だが、これは魔法ではなく科学だ。温度や時間などの調理プロセスが綿密に計算された分子調理メソッドを用いれば、一流シェフでなくとも同じ味が再現できる。

みんなの力で、
おいしい介護食を

分子調理とは、「料理を分子レベルで調べる」分子調理学と、「分子レベルで調べた原理を応用しておいしい料理をつくる」分子調理法を合わせたもの。「SAWARABI HAPPY FOOD PROJECT」は、料理を調理人個人の経験や感性に依存せず、科学への脱却をはかることで「おいしさ」を誰もが再現できることを目指している。
試食会で供された寿司は、多田氏だけでなく、さわらびグループの調理師、栄養管理士も調理スタッフとして加わった。もちろん、将来的にさわらびグループの医療施設、社会福祉施設で提供できるようにするためである。

プロジェクトリーダーの山本左近氏はこう職員に問いかけた。
「みなさんは『おいしい』とはどういうことだと思いますか。僕は『おいしい』というのは人それぞれ違うと思いますが、本当に『おいしい』ご飯を作るためには、作り手の感覚だけに頼っていてはいけないと思います。
分子調理という科学的アプローチによって、おいしさの指標ができ、再現性も高まります。その結果が、日々の『おいしい』につながっていくのではないでしょうか」

プロジェクトのキャッチコピーは「みんなの力で、おいしい介護食を」。人により異なる「おいしさ」の基準を科学的に分析することで、介護を受けている人みんなが「おいしい」と感じられる料理が提供できるはずだと左近氏は言う。

この介護食が
最後の食事になるかもしれない

なぜ、左近氏はそこまで一人ひとりの味覚にフィットさせることにこだわるのか。

「患者さんや高齢者の方々に食事を提供することは、私たちにとっては毎日の仕事ですが、患者さんや高齢者の方にとっては違う。今日食べたそのご飯が『最後の食事』になるかもしれないのです。最期に食べるのは、その人にとっておいしい食事であってほしい」
この左近氏の思いが、プロジェクトの根幹となっている。より「おいしさ」を味わいながら食べられる介護食を追究することで、利用者が「口から食べることの喜び」を感じて、日々の暮らしを楽しんでいただくことが、目指すゴールの先にあるビジョンだ。

「本当においしい」食事を提供するためには、まず食べる人ごとに「おいしさ」を分析する方法と、「おいしさ」を再現できる科学的なアプローチが必要だ。そこに分子調理というメソッドがぴたりとはまった。

今後は同様の手法を使ったさまざまな料理のレシピが開発され、そのレシピごとの完食率や満足度などのデータを蓄積していくのだという。完食率はIoT(*注)を用いて客観的に測定。データを蓄積することによって利用者の体調の変化など気づきも得られるようになるだけでなく、利用者ごとにレシピをカスタマイズするのに役立てていく。体調も味覚も異なる利用者の一人ひとりが「本当においしい」と、心から満足できるレベルまで引き上げるためである。
*注:IT機器以外の「モノ」がインターネットにより相互に接続されているシステム。

そう、このプロジェクトの構想は大きい。さらにプロジェクトで得た成果は、さわらびグループのみで活用するのではなく、オープンに公開して他の施設でも活用できることを目指している。つまり、分子調理という科学的なアプローチで構築したこの介護食の「おいしさ」を、どの施設でも再現できるようにオープンソース化するという試みなのだ。(続く)

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