Super GB

たおれてのち

002
川淵三郎
Saburo Kawabuchi

80歳を過ぎてからは、
気安く引退しようと
言わなくなりました

わたしたちは、「おじいちゃん」「おばあちゃん」という言葉を高齢の方に対して何気なく使う。しかし人生100年時代といわれる今、75歳なんてまだまだ若い。超高齢社会が加速する中でも、高齢であることをみじんも感じさせない、それどころか若者以上にバイタリティに満ち溢れた活動を続ける人がたくさんいる。想像を絶するほどタフで、趣味も仕事も全力で楽しむそんな人たちを、称賛の気持ちを込めて「SUPER GB (Super Great / Super Beauty)」と命名した。彼ら彼女らの輝きの源はどこにあるのか。その秘密を知りたくて、そして学びたくて、会いにいくことにした−−。

今回登場いただくのは、初代Jリーグチェアマンであり、日本サッカー界を牽引し続けてきた川淵三郎氏。2016年には日本バスケットボールを改革し、新たなプロリーグ「Bリーグ」を創設した。現在、日本トップリーグ連携機構のボールゲーム9競技12リーグの活性化などを担う川淵氏の、若さと強さの秘密を探る。
photos : Nobuaki Ishimaru(d'Arc)
text : Takaomi Matsubara

左遷されて人生のビジョンを
初めて考えた

Q:川淵さんの経歴を振り返ると、歳を重ねるにつれ、活動分野を広げていらっしゃいます。現在に至る転機となるような出来事はあったのでしょうか。
川淵三郎(以下、川淵):僕にとっていちばん大きかったのは、51歳のとき、勤めていた古河電工で子会社に出向を命じられたことですね。僕にとっては左遷でした。その人事でサラリーマンとしての先が見えたと思い、辞めようかと思うほどのショックを受けました。

それまでは、いい地位に就きたい、いい給料をもらいたいと、自分のことばかり考えていましたが、出向を命じられたことを機に、何のために仕事をしてきたのか、何のために生きているのかを突き詰めて考えました。そのとき、偶然にも日本サッカーリーグ(JSL/Jリーグの前身)の総務主事をやらないかと声がかかり、サッカーを人気のスポーツにしたいと思って引き受けることにしました。
Jリーグ立ち上げにあたっては、日本代表時代に経験したドイツの原風景がありましたので、日本にスポーツ文化を根付かせたいと思いました。

「スポーツ馬鹿」という言葉が象徴的ですが、日本ではスポーツが低く見られるところがあった。大統領を目指す人が、学生時代にやっていたスポーツを問われるアメリカとは、スポーツの地位がまったく違う。
 だからJリーグの開幕宣言は、「スポーツを愛する多くのファンに支えられまして、今日ここに大きな夢の実現に向けてその第一歩を踏み出します」と、サッカーのサの字も言いませんでした。
Q:左遷がなかったら、人生はまったく違うものになっていましたか。
川淵:それは間違いないですね。サッカー界には絶対に戻っていなかったでしょう。会社で重役になって、当時だと63歳で定年かな。関連会社などに行って、働いていたかもしれないですね。何よりも、自分の人生のビジョンを考えずに生活を送っていたのではないでしょうか。
出向を命じられたことを機に「何のために仕事をしてきたのか」
「何のために生きているのか」を突き詰めて考えたという。

高齢という理由で退く必要はない

Q:Jリーグを立ち上げ、日本サッカー協会会長を務めたあとも、さまざまなスポーツ団体の改革などで広く活動されています。はたから見ていると、現役ばりばり、と表現したくなります。そろそろ退こうと考えたことはなかったのでしょうか。
川淵:実はあります。以前、首都大学東京の理事長を務めていました。任期は4年、80歳まででした。競技団体の役員などもしていましたが、理事長を退任する80歳になったら、それらの一切を辞めようと思っていたんです。
そのとき、(2つのリーグの対立などに揺れていた)「バスケットボールをなんとかしてほしい」という話がきたんです。これは僕にしかできないと思いました。

よくよく考えると、80歳を過ぎても組織のトップに立っている人は大勢いますよね。それを考えると、年を取ったから辞めなければいけない、と自分で言っちゃだめだなと思いました。
「こんな年齢でやっているのか。俺より年上なのに」、そういう勇気の与え方もあるでしょうし、「年寄りがでしゃばって」と言う人もいるかもしれないけれど、本当に世の中の役に立っているなら歳は関係ないわけです。80歳を過ぎてからは、軽々に引退しようと言わなくなりましたね。
Q:活動を支えるエネルギーはどこからくるのでしょう。
川淵:忙しそうに見えるでしょうけど、ゴルフは去年59回行っているんです。月に5回はやると決めています。趣味を最優先にして、仕事は二の次にしているのがよいと思います。なるべく無理をしないようにはしていますよね。でも、歳のわりにはしているかな(笑)。
右上は1964年東京五輪・サッカー日本代表に選ばれた川淵さんが当時着用していたトレーニングウェア。
日本サッカーミュージアムに展示されている。

歩いていく道筋を考えることが大切

Q:今後、「人生100年時代」になると言われています。よりよく生きるために何が重要になっていくと思いますか。
川淵:余暇をどう活かすかということじゃないですかね。10年後にはAI(人工知能)が進歩して、新しい仕事ができる一方、合理化も進むでしょう。すると、余暇が生まれるはずです。その時間をどう活かすか。趣味や生きがいをそこに求めないと、人生がつまらなくなるのではないでしょうか。

50歳の人なら、人生の半分しか済んでいないわけですから、これから生きていく上で何が必要なのか、何のために生きているのか、何を生きるビジョンにするかを考えてみるということも必要でしょう。僕が左遷されたときに考えたように。
60歳でも70歳でもかまわないけれど、歩んでいく道筋がなく、どこに歩いていったら良いかわからないというのでは、きっと人生において困ってしまうと思います。
Q:生きがいを見つけられないという人もたくさんいると思いますが、どうやったら見つけられるでしょうか。
川淵:趣味でも、美術館、博物館巡りでも、それこそ毎日1キロを歩くことでも何でもいいんです。自分で思って行動を起こすこと。毎日家にいて、ぼやっとテレビを観ていても何も変わりません。

地域社会の中で自分が生きる、と考えるのも、地に足がついた考え方としてよいのではないでしょうか。例えば子どもたちの通学の見守り隊。行き帰りをきちんと見てあげようとか、学校に行ってのボランティア活動とかいろいろ考えられますよね。子どもたちのまわりにいて役に立つ、というのがいちばんやりがいにつながるんじゃないでしょうか。
Q:今になっても、新たに学ぶようなこともありますか。
川淵:日々勉強です。娘が、「朝起きたら、つま先立ちを30回やるといいよ」と言うので半年くらい続けていたら、それまでできなかった片足立ちでズボンや靴下をはけるようになったんです。今は30回じゃなく、100回以上やっていますね。

孫がいて、中学3年生のとき漢字の準一級をとりました。その孫と「これ知ってるか」と漢字でやりあったりもする。「矍鑠(かくしゃく)*注」って、漢字で書けますか? これはテレビのクイズで知ったのですが、目が2つしっかりしていて、お金があって、楽しいと書く。

「斃れて後已む(たおれてのちやむ)」という言葉は「倒れた後にやめる」ということなんだけど、裏を返すと倒れるまでやめない、つまり「死ぬまで努力し続ける」という意味です。常に向学心、好奇心を持って生きることが大事ですね。

*注:「年を重ねても、心身ともに丈夫で元気のいい様子」の意。
新しい漢字を覚えることの喜びとともに「矍鑠」とペンで記す川淵さん。

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