身分証明書のない未来の診療

 風邪を引いたかも……。 起きてみると、ベッドサイドにあるディスプレイの表示で、38度の熱があるとわかる。こうして風邪を引くのは何年ぶりのことだろう。

 ベッドの中のセンサーは体温だけでなく、呼吸数や寝返りの数などを記録し、それらのデータに基づいたアルゴリズムによって快眠度指数を表示してくれる。最新のものは夢を記録してくれる「e-dreamピロー」なんてものもあるらしい。僕はそれほど夢を見ないショートスリーパーだけど、「e-dreamピロー」には興味がある。

 ただ、長時間「e-dreamピロー」ことを考えていると、僕の意識を読み取った川のような社名の世界最大の通販会社が、現物を届けに来てしまうかもしれない。注意が必要だ。便利になった一方、便利すぎて厄介なのも事実だ。

 そうそう、それより熱だ。「体がだるいので病院へ」とAIコンシェルジュに話しかけると、地域のかかりつけ医のなかで、病気の専門性や僕との相性の良さ、現時刻の混雑度合などを分析して、オススメのドクターを表示してくれる。
 待つこと、ほんの数十秒。「これから10分後に診察です」とAIコンシェルジュに案内される。

 懐古主義の僕は、まだリビングにテレビ型のモニターを置いている。昭和生まれにとって、そのほうが安心するからだ。モニターの前に座り、昔でいうバーコードリーダーのようなものに手をかざすと、すかさず僕のデータがドクターのところへ飛んでいく。

 かつてのように保険証などの身分証明書を持つ必要もない。すべての人が親指と人差し指の間にIDマイクロチップを入れているからだ。

 現金は電子マネーになり、財布をもつ必要性はもうない。運転免許証は自動運転証になった。保険証は、ついにPHR(パーソナル・ヘルス・レコードの略)がプラットフォームとして稼働し、便利になった。

 昔は病院ごとに診察券が発行されたり、お薬手帳なるものを渡されたりしていた。病院を2つ、3つまわると、どの薬をどう飲めば良いのかがわからなくなっていた。
 お薬手帳や薬袋には、この薬は食前に1錠、こっちは毎食後に1日3回、これは夕食後に1錠などとそれぞれ書かれていたけれど、そのうち薬袋はしわくちゃになってくるし、それと同時に薬も飲まなくなっていた。

 でも今は違う。薬のケースが自動的に飲み忘れ防止のアラームを出してくれるし、薬をちゃんと飲んだかどうかは、薬の中に入っている無害のナノチップによって管理されている。
 そのため21世紀の初めごろにあった残薬の問題はほとんど解決された。

 AIコンシェルジュが病院にアポを入れた時間になった。寝巻きから部屋着に着替えた僕は、テレビ型のモニターの前に座って、画面に映った先生の診察を受ける。対面遠隔診療だ。
 「外来待ち3時間、診療3分」などと言われていた頃を思えば、今は出かける必要もないし、待ち時間もほぼない。

 先生は、事前に読み込まれた僕の既往歴やここ数日のバイオデータ、そして僕の話の内容から総合的に考え、診療をしてくれた。
 普段なら「では、ドローンで薬を届けておきますからお大事に」で終わるのだけど、今日は気になることがあったらしく、血液採取をしたいとのことだ。

 15分後、Uberやタクシー配車アプリのように、うちから一番近所をまわっていた訪問ナースがアサインされ、そのナースが注射器を持って採血に来てくれた。

 このとき、僕は起きてから初めて人と触れ合ったことに気づいた。テクノロジーが発達して、効率的になっているのは間違いないけれど、そのぶん人との触れ合いが減っているのも事実だった。

 血液を採取したナースが帰ってほどなくして、病院からまた連絡が入った。先生がモニターに現れる。採血の結果によると、風邪ではなく流行の感染症にかかっているらしい。これ以上、悪化する前に治療が必要とのことで、急性期病院を紹介してもらった。

 すでに向こうの先生にデータを送ってあるので、入院準備をしてほしいとのことだ。そして、退院は3日後になることも告げられた。治療による回復スピードは入院前にデータ予測されていて、最近では90%の確率で当たるほど正確になっている。

 僕は入院中も仕事ができるように、タブレットPCを“丸めて”カバンに入れ、外に出た。病院側から指定された車がすでに待っている。もちろん自動運転車なので、そこに運転手はいない。

 そして病院に到着すると、今度は自動運転の車椅子が玄関まで出迎えてくれた。そのまま車椅子に乗り、手をかざしてID照合を済ますと、入院する部屋へと案内される。そういえば、車椅子という言葉は、実はもう死語だ。今はPAM(パーソナル・アシステッド・モビリティの略)という。

 ベッドで横になっていると、先生がやってきた。先生は病室まで診療に来てくれる。病状説明の後、治療方針を説明してもらった。そして横になっていると、準備を済ませたナースが点滴を持って病室に入ってきた。

 この点滴だけは、昔と変わっていない。少しだけ違うのは、ずいぶんと小型化されたことと、点滴の流量は薬剤と本人のデータから適切量が自動計算され、かつモニタリングされていること、そして何かあったときや終了時には担当ナースに「お知らせ」が飛ぶ仕組みになっていることぐらいか。

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 久しぶりに風邪を引いたある夏の日の午後。こんな未来は、いつやって来るのだろうと妄想してみました。30年後? いやいや、もしかすると、もっと近い未来にこうなっているかもしれません。