CROSS TALK
SAKON Dialogue : 014

障がい者の目線で生きる #1

古木克明(Baseball Surfer代表/元プロ野球選手)
古木克明
KATSUAKI FURUKI
Baseball Surfer代表/元プロ野球選手
SAKON Dialogue : 014
障がい者の目線で生きる #1
スター選手に憧れた野球少年は、いつしか夢を叶えてビッグスタジアムのまぶしいほどのスポットライトを浴びるベースボールプレーヤーに成長した。今度は自分自身が雲の上の存在になったが、やがて人生の荒波にもまれ、大きな転機を迎えることに。 今回『長寿のMIKATA』編集長の山本左近が話を聞いたのは、元プロ野球選手の古木克明さんだ。プロ野球選手を引退した後、古木さんの姿は車椅子ソフトボールの球場の上にあった。なぜ古木さんは障がい者のスポーツ競技に積極的に参加しているのだろうか。その想いや彼の人生遍歴について、山本左近が切り込んだ。対談は前編・後編の2回に分けてお送りする。
photos : Nobuaki Ishimaru(d'Arc)
text : Masaki Takahashi

障がい者と健常者が平等な
スポーツ

山本左近(以下、左近):古木さんは1999年から10年間、横浜ベイスターズとオリックスで活躍されたプロ野球選手としての輝かしいキャリアを持ちながら、現在は積極的に「車椅子ソフトボール」大会に出場されるなど、意外ともいえる活動をされています。その動機や原点について教えていただけますか。

古木克明(以下、古木):先日(2018年9月1日)はライオンズカップ車椅子ソフトボール大会に参加していただき、本当にありがとうございました。
僕はかつてプロ野球の世界で戦力外通告を受け、野球から離れざるを得なかった過去があります。その時は「二度と野球関連の仕事や活動はしない」と決意したのですが、ここ2~3年で考え方が変わったんですよ。僕を変えてくれた影響のひとつが、この車椅子ソフトボールとの出合いだといえます。

左近:その時に何か衝撃的な感覚や新たな刺激を受けたんですか?

古木:車椅子ソフトボールは、車椅子を操作できれば誰でもできますし、普段車椅子に慣れていない健常者にとっては動きが難しいので、障がい者と健常者の差がそこで埋まって、両者にとって平等で垣根なく楽しめるスポーツだと実感しました。
最初は知人に誘われて、気軽な気持ちで参加したんですが、それ以来、車椅子ソフトボールの面白さや素晴らしさに魅せられて、2015年の第1回大会から参加を続けています。

左近:障がい者の人たちに交じって一緒にスポーツをするって言葉では簡単ですが、実際に積極的に関わり続けるのは行動力が必要だと思います。そのモチベーションはどこから来ているんですか?

古木:もしかしたら小学校時代の友人に感謝しなければいけないかもしれません。当時、僕の同級生で、障がいの種類は定かではないんですが、勉強は普通にできるのに会話がなかなかできず、突然暴れ出しちゃう子がいたんです。
その子は感情表現も豊かで、よっぽど僕らよりも純粋で素直だったんです。彼をいじめたり、からかうのは本当におかしいと思っていました。

そんなことに子どもの頃から気づけたおかげで、障がい者の人に対して、先入観なく接することができるんです。車椅子の人たちも普通なんだよ、同じなんだよって。
車椅子ソフトボールをみんなで楽しんでいる空間や時間こそ、分け隔てのない世界に思えます。その感動が、参加し続ける気持ちにしてくれたんです。

左近:今後こういった障がい者スポーツに対して、どういった活動や関わり方をしていきたいと考えていますか?

古木:自分が先頭に立って何かをするのは好きではないし、まして連盟に入るみたいな団体活動も性に合わないので、障がい者と同じ目線で同じ体験をして、その体験談をSNSなどを活用して発信していけたらと考えています。

左近:古木さんの発信力は絶大なので、大きな影響力があるはずです。障がい者のみなさんにとって、大きなパワーになるでしょうね。

痛みを知るほど優しくなれる

左近:古木さんがプロ野球選手を志したのはいつ、どんなきっかけだったのでしょうか。

古木:1998年の日本シリーズで、清原和博選手が場外ホームランを打ったのを観たんですよ、小学3年生の頃に。まるでマンガのワンシーンのようで、「こんな選手になりたい!」と思って、本格的に野球に打ち込み始め、清原選手が僕の目標になりました。

左近:10歳にして人生の道が決まったわけですね。早熟ですね。そして晴れて夢を叶え、清原選手と同じプロになった。まさにサクセスストーリーですね。

古木:何万人ものお客さんの前で打席に立って、ヒットを打って、一塁ベースに駆け込んだ時、一塁手だった清原選手に「ナイスヒット!」と声をかけられた瞬間が僕にとっての最高の思い出です。憧れの人と同じ舞台にいるという喜びですね。「プロになってよかった」と心から思いました。

左近:もちろんプロの世界ですから、スポットライトを浴びるばかりでなく、つらいことや苦しいことも多々あったと思います。

古木:プロになると野球が職業へと変わります。すると、結果を求められ、何万人の前でプレーするプレッシャーも伴います。失敗すれば、「チャンスに弱い」「目が悪い」といったレッテルを貼られてしまう……。そこで焦ったり、悩むほど悪循環に陥っていました。
2003年のシーズンはさんざんで、自分の弱さが結果にあらわれてしまいました。オフシーズン中、外野手転向を契機にバッティングも見直し、2004年シーズンは誰になんと言われようと自分のスタイルを変えない決意で臨みました。すると成績が安定したんです。

左近:僕もプロスポーツの世界にいたのでよくわかります。どん底やスランプの経験は本当につらい……。結果を急ぐ余り焦って失敗し、自信を失ってまた失敗するという悪循環。
そんな時は無理にあがいたりせず「仕方ない」と割り切って、とにかく一歩一歩、できることから前へ進むことだけを意識していました。

古木:正解ですよね。もうなんでも来いってくらいに開き直ったほうがいい結果が出る。それが、スランプの打開策だと思います。

左近:日本のプロ野球をやめてから、古木さんはその後ハワイに渡って、米独立リーグにチャレンジしていますよね。その時もある意味、開き直りの気持ちで向かったんですか?

古木:そうですね。海外での挑戦で一番の壁は、言葉でした。英語がほとんどわからないので、どうコミュニケーションをとればいいのかって。
ハワイのリーグに入ると、海外のチームメイトと共同生活が始まるんですよ。不安でしたけれど、なんとかなるかなあって。実際、なんとかなりました(笑)。

左近:日本のプロ野球界から戦力外通告を受け、一時は格闘家に転向し、海外で再び野球に挑戦するという、いわば常人の何倍もの苦労と、それに伴う数々の苦しみを味わった経験が、古木さんの分け隔てない優しさに結び付いているんだなって、僕は先日の車椅子ソフトボール大会の時に感じました。

古木:海外に出て言葉の壁に直面することだってひとつの障がいなわけです。そういったバックグラウンドがあるから、人の痛みがよりわかるようになったのかもしれません。これも車椅子ソフトボール大会への参加を継続できている大きな理由だと思います。

#2に続く
古木克明
KATSUAKI FURUKI
Baseball Surfer代表/元プロ野球選手
1980年、三重県松阪市生まれ。1998年に横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)にドラフト1位で入団。2003年にキャリア最多の25本塁打を記録。2007年にオリックス バファローズに移籍するも2009年に戦力外通告を受け現役を引退。同年格闘家転向を表明。生涯戦績は2戦1勝1敗。2013年には米独立リーグのハワイ・スターズに入団し、1シーズンのプレーしその後引退。2014年から事業構想大学院大学へ入学し、事業構想修士を取得する。2017年に新しい野球の楽しさを広めるべく「Baseball Suffer」を起ち上げる。
山本左近
SAKON YAMAMOTO
さわらびグループ CEO/DEO
レーシングドライバー/元F1ドライバー
1982年、愛知県豊橋市生まれ。幼少期に見たF1日本GPでのセナの走りに心を奪われ、将来F1パイロットになると誓う。両親に土下座して説得し1994年よりカートからレーシングキャリアをスタートさせる。2002年より単身渡欧。ドイツ、イギリス、スペインに拠点を構え、約10年間、世界中を転戦。2006年、当時日本人最年少F1デビュー。2012年に日本に拠点を移し、医療法人/社会福祉法人の統括本部長として医療と福祉の向上に邁進する。2017年には未来ヴィジョン「NEXT55 Vision 超幸齢社会をデザインする。」を掲げた。また、学校法人さわらび学園 中部福祉保育医療専門学校において、次世代のグローバル福祉リーダーの育成に精力的に取り組んでいる。日本語、英語、スペイン語を話すマルチリンガル。

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