MIRAI
山本左近の未来考察『医療福祉×テクノロジー』
第11回

人としての尊厳を
みんなで守り合う

認知症になったら、
人間として終わりなのか?

 前回のコラム016では、神戸市における認知症支援対策についての新しい行政の取り組みを紹介させていただきました。困ったときに、市民がみんなで助け合うための制度となっていることがお分かりいただけたのではないかと思います。

 最近、各所で聞くようになった「認知症」という言葉。超高齢化が進む時代のなかで、誰もが認知症になる可能性を秘めていて、根本的な治療方法がいまだ発見されているわけでないため、私たちの危機感はなお一層膨らむ要因となっていることは間違いありません。

 認知症という恐ろしい病気が、私たちの将来に対する漠然とした不安を煽る。認知症になってしまったら、どうなるんだろう。人生が終わってしまうのか、はたまたそれすらも分からないまま勝手迷惑な行動をしてしまうんだろうか。そんなことなら、いっそのこと死んでしまいたい……。こういった意見を日常の会話の中で聞くことは決して少なくありません。

 でも、認知症という病気になったら、本当に人間終わりなのでしょうか。そんなことはありません。風邪という病気にかかったら人間終わりますか? 終わりません。認知症も病気の一種です。その病気になったからといって、その人の人間としての尊厳が失われるわけでは決してないのです。

老いを問うことは
未来を問うこと

 では、私たちはこの認知症という長寿社会のもっとも大きな課題に対して、どのように向き合っていくべきなのでしょう。

 初めは、認知症を正しく理解するところから始まると思います。病気の専門的な知識を覚えるというよりも、認知症の人を理解することです。以前にも書きましたが、若年性アルツハイマー型認知症と診断された丹野智文さんは、こうおっしゃっています。

「認知症と言ってもいきなり何もできない人になるのではありません。目が悪くなったとき、1.0~ 0.1まで度数が違うように認知症にも段階があります。それは決して、何もできない人生になるのではなく、できること、できる度合い、できる範囲が変わることなんです。だから皆さん、 認知症の人をすべて『何もできない可哀想な人』としてレッテルを張ることをやめてください。まず、そこから知ってください」

 私たちは「認知症にならないためにはどうするか」ということと「認知症になっても安心して暮らすにはどうするか」を分けて考える必要があります。 そして、この未来考察では、後者の「認知症になっても安心して暮らせる街づくり」ついて、皆さんと一緒に考えていければと思っています。

「もし私が認知症になったら」という問いは「もし私が障害者になったら」「もし私がおばさんになったら」という問いと本質的には変わらないと思っています。不公平なことばかりの世の中ですが、その中でも平等なのが時間です。私たちは、誰もが平等に老いていきます。

 老いを問うことは、未来を問うこと。たとえば、障害者というワードについても、身体的な機能で言えば、18歳の頃の自分と、36歳の自分が50m走をした場合、明らかに身体的能力が劣っている今の自分は負けるでしょう。であれば、僕は18歳の頃に比べて、障害者になってしまったんでしょうか。

 ある意味ではそうかもしれませんが、そう考える必要はないでしょう。なぜなら、足の速さは負けるかもしれませんが、その他の部分で能力を発揮できると知っているからです。
 これは極端な例ですが、老いることや認知症について考えるときも、これと同じ発想で考えて良いのではないでしょうか。前と同じことができなくなったからと言って、人としての尊厳が失われるわけではないのです。

認知症という課題に
社会としてどう向き合うか

 では、次に認知症の人でも住みやすい環境について考えてみましょう。コラム016では判例も出して説明しましたが、あのときのニュースは本当に驚きました。

 電車事故で死亡された認知症の方のご家族に、電車会社側からの損害賠償請求。さらに1審、2審では家族側が負け、損害賠償を請求されたことにもっとも驚いてしまったのです。最終的に世論の盛り上がりも手伝ったのか、最高裁では損害賠償は認められず、家族側の勝利となりました。

 鉄道会社側からすると損害を受けても泣き寝入りという感覚なのかもしれませんし、家族からするといきなり多額な請求。これはどちらにとっても喜ばしいことではありません。認知症という病気から、このような関係しか生み出せないとするなら、なんとも生きにくい世の中ではないでしょうか。

 また、もうひとつ最近気になったことがあります。「私も認知症かも? こんな症状があったら認知症?」という感じのテレビの特集をたまたま見てしまったのです。芸能人の方々が物忘れがあったりすることなどを話し合い、ドクターは「それは大丈夫」「それは心配だから診断を受けたほうがいい」「こうしたら予防できる」と解説していました。

 僕はその番組が「人は健康で認知症にならないほうがいい。そうなってしまってはいけない」という煽るような内容になっていると感じました。もちろん健康で認知症にならないにこした事はないですが、話はそこで終わってはいけないと思います。

 なぜなら、これから団塊の世代が75歳以上となる2025年には、認知症患者数は700万人前後に達し、65歳以上の高齢者の約5人に1人を占める見込みですし、認知症の前段階と言われる軽度認知障害(MCI)と推計される約400万人も含めると、1000万人以上になる時代に入っていくからです。たとえ自分が認知症にならなかったとしても、ご家族の誰かが認知症になる可能性も含め、誰しもが認知症という病気と関わりを持つようになるのです。
 認知症の方がいるのが、当たり前の社会。僕らが目指すべきは、認知症の方が人間としての尊厳が損なわれない社会のはずです。

認知症の方が安心して暮らせる
街づくりに必要な3つのこと

 では、認知症の方が安心して暮らせる街づくりに必要なことは何でしょうか。
 1つ目は、認知症の症状がある方であっても、できることはあるわけですから、生きている限り、その方の能力を他の方の役に立つように活用してもらうことが大事になります。

 老人ホームに入っている認知症の方であっても、体が元気な方には他の利用者さんの車椅子を押して一緒に出かけてもらったり、手芸が得意な方には編み物をしてもらったりなどという具合に、その方のできることを見つけ、その方の力を発揮して他者と交流し、つながって社会の中で生きていく。

 こうした取り組みは個人個人、状況やできることが違いますから、その人をしっかりと観て理解する必要があると思います。

 2つ目は、危険を回避してあげることです。たとえば、上記においての一例ですが、歩いて行った先で危険な場所には入れないように工夫する、踏切や線路などに関係者以外が簡単に入れないように柵を作るなどです。完璧な予防対策というのは現実的には限界があるのも事実ですが、「危険の回避」というベクトルで対策を打つことは必要なはずです。

 3つ目が、行政の支援です。これが神戸モデルで示されたような例ですが、市民がみんなで少しずつ負担をして認知症検診を促したり、あるいは、事故被害にあった際には保険として経済面で安心できる制度を構築することです。

 ざっと3つを考えてみましたが、果たして「認知症の方が安心して暮らせる街づくり」とは何でしょうか。1つの正解を出そうとするのは間違っているのかもしれませんが、1つ問いに対して答えを出すなら、「認知症の方がみじめな思いをしない・させない社会」ということではないでしょうか。

 このことは、認知症に限らず、誰にとっても同じことだと言えます。私たちは、認知症の方が安心して、暮らしやすい街づくりをと考えていますが、「認知症は何もできない可哀想な人」と型にはめて考えるのではなく、自分自身に障がいがあったとき、自分自身が認知症になったときでも、安心して暮らしやすい環境とは何か、安心して暮らしやすい街とはどんなところか。そうした環境や街は、一人ひとりがそれについて知ろうとし、考えていくことから創られていくのではないでしょうか。

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