Super GB

ずっと
新しいことに挑戦を

004
東海林のり子
Noriko Shoji

「人生は50くらいからが勝負かも!」
リポーターの草分け・
東海林のり子さんの流儀

わたしたちは、「おじいちゃん」「おばあちゃん」という言葉を高齢の方に対して何気なく使う。しかし人生100年時代といわれる今、75歳なんてまだまだ若い。超高齢社会が加速する中でも、高齢であることをみじんも感じさせない、それどころか若者以上にバイタリティに満ち溢れた活動を続ける人がたくさんいる。想像を絶するほどタフで、趣味も仕事も全力で楽しむそんな人たちを、称賛の気持ちを込めて「SG/SB (Super Great / Super Beauty)」と命名した。彼ら彼女らの輝きの源はどこにあるのか。その秘密を知りたくて、そして学びたくて、会いにいくことにした−−。

今回登場いただくのは、70年代後半から90年代半ばまで、女性では当時としては珍しい事件リポーターとして数多くの現場を取材してきた東海林のり子さん。2018年は講演活動のほかミュージカル(!)にも挑戦。ハンバーガー好き、ロックバンドのライブに通うなどハツラツとした姿も見せる東海林さんの元気の源を尋ねる。
photos : Nobuaki Ishimaru(d'Arc)
text : Takaomi Matsubara

ほかの人より深いところまで
伝えたかった

Q: 東海林さんは女性レポーターの草分けですが、テレビ、新聞をはじめとする報道陣は男性が大半だった時代の中、どのように取り組まれていたのでしょうか。
東海林のり子:(以下、東海林):どうやって男どもに勝つかを考えていました(笑)。男の人ってね、ある程度取材するとあきらめて帰るんですよ。意外とあきらめが早いんですよね。でも、私は途中で引き返してまた取材。もう、粘りしかなかったですね。
Q: 事件があると急に呼び出されたり、大変だったのではないでしょうか。
東海林:ぜんぜん大変とは思わなかったわ。なぜかというと、ほかのレポーターや記者よりもちょっと深いところまでいける、という達成感みたいなものがあったんですよ。
Q: 子育てと同時進行でしたが。
東海林:テレビに映る仕事だったこともあり、子どもなりに、ただ遊んでいるお母さんじゃないというのはわかってくれていたようです。朝、新聞を広げて「この事件にママ行くから」と伝えてから家を出たりもしていました。
主人からは一度だけ、「(仕事をやめて)子育てをきちんとやるか、続けるか、どっちかにしろ」と言われたことがありました。1週間考える時間をもらって「やっぱりやります」と伝えたら、「そうか。精一杯やれ、日本一のレポーターになれ」と言ってくれました。ありがたいですよね。
Q: 1995年の阪神淡路大震災を機に引退されましたね。
東海林:あの時、「これ以上ひどい現場に立つことはない」と思ったんです。結果、その後も(神戸連続児童殺傷事件や東日本大震災など)ひどい事件や災害は起こったのですが……。
何よりも感じたのは、現場の凄惨さとスタジオとの温度差でした。360度どこを見回しても圧倒される現場の状況が伝わらない。それがむなしくなっちゃったのね。そのとき、ちょうど60歳だったんです。けじめをつけるのなら今かな、と。
日々更新される情報を追いかけるため日課にしていた新聞記事スクラップのノートは約70冊にまで増えた。
表紙には手書きの目次が。

仕事は続けるほどおもしろくなる

Q: 経歴を拝見すると、40、50代にテレビの世界で、事件レポーターになって活動を始められました。人生の半ばで大きな変化があったのですね。
東海林:そうですね。でも、ふつうの仕事をしていたら今、こんなに強くはなれなかった気がします。
Q: それが東海林さんのパワーにつながっているのでしょうか?
東海林:今振り返ってみても、50歳から60歳の10年間はめちゃめちゃ走りました。それでも倒れない。私、股関節が悪いのだけど、取材で山に登ったりしないといけないこともありました。でも当時はガッツだけで登れたのね。痛いとも思わなかった。
私は完全にフリーで、所属している事務所はありませんでした。だから、取材できなかったらダメですよね。「あの人は足が悪いんだ」ということになると、仕事の声がかからなくなると思って。もう精神力でしたよね。

精神力を大事にするきっかけになったのは、1993年のアイルトン・セナ(F-1ドライバー/1994年にレース事故により他界)とジーコ(元サッカー日本代表監督)の対談です。たまたま、その取材に行ったんですよ。その中で、セナが「精神力に限界はない」と言ったんです。ものすごく印象に残っています。

仕事はね、続けるほどおもしろくなりますよ。だから思うのですが、45から65歳くらいまでは、ばりばりつらい思いをしたほうがいい。50くらいからが勝負なのかもしれません。そうするとね、80歳くらいになったとき、やりたいことがいっぱい出てくる。
「過去にあれほど頑張れた私なんだ、まだまだいけるぞ!」と思えますから。楽に楽に過ごしていると、歳を重ねたときにつらくなるかもしれません。
「唯一、残っている現役時代の写真」と東海林さんが見せてくれた一枚。
1982年、現場にいた別の記者が撮影してくれたのだという。

「ちょっとした新しいことへの挑戦」を大事に

Q: 現在はどのような活動をされているのでしょうか。
東海林:今は講演活動のほか、インターネットと携帯のサイトで番組に出ています。
Q: これから挑戦してみたいことはありますか?
東海林:誰かが何かをやっていると、「あ、私もやってみようかな」と思うんです。例えば100歳のおばあちゃんがテレビに出てきて、こんなことをやって曲がっていた腰が治りました、という話を聞くと「そうか、やってみよう!」と。
そういうことをね、100円ショップにある小さなノートに、「To Doリスト(その日にやることリスト)」として書いているんですよ。書いて実行したら、赤線で消す。達成感がすごいの(笑)。

そうそう、今年の5月には初めてミュージカルをやりました。小児がんや重い病気の子どもたちと、そのご家族を支援するチャリティーコンサートで。そこの子どもたちがミュージカルに初挑戦するとき、私も「やったことがないからやってみようかな」と言ったら、作家さんが「やってみますか」と役割をくださって。ちょっとした新しいことをやるのがいいんですね。
Q: 趣味のロックバンドのライブ鑑賞もまだ「現役」ですね。
東海林:私は録音した音楽よりもライブの生の音が好きで。そこに本物を感じるんです。今年は暑さが厳しかったので、野外フェスには行けませんでしたが、今後行くライブの予定もね、スケジュールノートにみんな書いてあります。

今朝はね、ブランキー・ジェット・シティのドラムだった(中村)達也さんからメールがきました。「今年は暑いな、俺は楽しくやっているぜ」って(笑)。ご無沙汰していても、またどこかのライブで会えると思うと、楽しみです。
レポートもライブも「現場」まで足を運ぶのがモットーの東海林さん。
大好きな音楽の話になると女子高生のようにキラキラした表情に。

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